卒業生の記憶でたどる、
見付中学から磐南へ
最初の教室では、机の穴から鉛筆が落ちた。半世紀後、理数科の生徒は伊豆の海でウニを採り、その卵が分かれていくのを顕微鏡で追った。どちらも、後輩に尋ねられた卒業生が語った授業の記憶だ。
創立80周年記念誌を開いて、学校の年表だけでは見えてこない、授業と放課後の風景をたどる。

先生と生徒が、土を運んだ
1922(大正11)年4月、静岡県立見付中学校が開校した。最初に生徒が通ったのは、見付の五階堂を借りた仮校舎だった。第1回卒業生の関吉太郎さんによれば、入学当初は一組50人が二組。校長が国語と漢文を教え、体操の時間には先生の後を追って近くの神社を回った。
4年生の頃、風をよける堤を築く作業で、関さんは校長と二人で「もっこ」を担いだ。盛り土を載せ、前を生徒、後ろを校長が持って歩いたという。年表の「防風堤」の文字からはわからない、土の重さを二人で引き受けた記憶だ。
「校長先生が後を担いで、私は前の方を担いで運びました。」出典:創立80周年記念誌「関吉太郎氏へのインタビュー」61頁。年表は37頁。
1926年には50メートルプールが完成した。のちの生徒が覚えていたのは、オリンピックにも出た牧野正蔵、寺田登、杉浦重雄ら、身近な泳ぎ手の姿だった。一年生全員が泳げるようにと教わった一方で、飛び込み台から水面を見る怖さも回想に残る。
出典:同誌37、41、43頁。人物紹介:牧野正蔵・寺田登・杉浦重雄写真を読む作業
関さんが覚えていたのは、校長と二人で土を運んだことだ。見中第1回生の欄にあるこの写真は、作業の規模を伝えている。手前で道具を扱う人たちのずっと向こうまで列が続く。誌面での題は「作業」で、どの施設を造っているところかは記されていない。
桜並木を抜けて、校門へ
見付から通っていた見中18回生の回想に、校門まで続く桜並木が出てくる。新学期になると、生徒は枝の下を歩いて登校した。戦況の知らせが暗くなるなか、書き手にとって、朝日に照らされた桜は通学途中に息をつける場所だった。
見中21回生の欄になると、学校へ行く時間そのものが減る。教室で過ごすはずの時間が農作業や工場での仕事に替わり、木製プロペラやたばこの製造に動員された。年表には1945年3月の繰り上げ卒業、5月に賀茂工場で空襲により3年生3人が亡くなったこと、8月に動員が解除されたことが別々に記されている。
出典:同誌37、44頁「桜の励まし」、45頁「戦時下の学校」「学徒勤労動員出動」。写真を読む勤労奉仕作業
見中18回生の頁では、桜並木の回想に、斜面を切り崩す作業の写真が添えられている。手前に延びるレールを目で追うと、土を積む人と、少し先の台車に付く人がいる。教室を離れて働いたという回想に、仕事の手順まで見えてくる一枚だ。
同じ教科書を開き、科学展をひらく
磐田第一高校が磐田南高校に改称された1949年、女子生徒が入学した。共学最初の女子生徒の一人だった鈴木さんは、進路を決めるのに一週間ほどしかなかったと話している。決め手は、男子と同じ教室で同じ内容を学べることだった。
「ぜひとも男の方と同じレベル同じ内容で学びたいという夢がありました。」出典:同誌「第3章 先輩に聞く」共学最初の女子生徒へのインタビュー、63頁。
鈴木さんが入ったのは科学班の地学部。太陽の黒点を調べるときは物理部、植物を集めるときは生物部の力を借りた。生徒が企画した科学展は当時の図書館で土日の二日間開かれ、保護者やほかの学校の生徒も見に来たという。校名が変わった年を、何を一緒に調べ、誰に見てもらったかという角度から知ることができる。
出典:同誌37、63〜64頁。写真を読む科学部
共学が始まって数年後の雰囲気は、磐南6回生の頁にある「科学部」からうかがえる。手前では何人もが同じ器具に顔を寄せ、奥の台でも別の手が動いている。鈴木さんの科学展の回想と並べると、生徒同士で道具を囲む日ごろの活動にも目が向く。
はぐま祭の体育館に、エレキが響く
年表にある第1回学園祭は1950年。文化祭が「はぐま祭」と呼ばれるようになったのは1962年だ。磐南21回生のバンド「ザ・ハングリーズ」は、その舞台にエレキギターを持ち込んだ。楽器を使うか直前まで迷っていたメンバーを迎えたのは、満員の体育館。自作曲も交えて演奏したあと、学校から呼び出されて注意を受けたところまでが、出演者の思い出になっている。
1972年のはぐま祭を振り返った磐南27回生が覚えていたのは、フォークソング同好会のギターに合わせて皆で歌ったこと。磐南30回生の回想では、出し物はタロット占いだった。同じ祭の名前の下に、客席から見る人、舞台に立つ人、教室で客を待つ人がいた。
出典:同誌37〜38、52、54〜55頁。写真を読むはぐま祭 フォークソング
磐南27回生の頁には、はぐま祭の舞台を正面から収めた横長の写真がある。左手にギター、右端には歌い手の列に向き合う人が見える。一人の演奏者に寄らず舞台の幅を写した構図が、みんなで歌ったという回想によく重なる。
ウニの卵から、医学への入口へ
理数科の第1回卒業生、福田馨さんが覚えていた数学の授業は、整数全体と偶数だけの集まりの、どちらが多いかという問いから始まる。1には2、2には4という具合に一つずつ組にするとどうなるか。計算の手順を覚えるのとは違うおもしろさが、そこにあったという。
夏の生物の合宿では、伊豆の堂ヶ島でウニを採り、卵を顕微鏡で観察した。ひとつが二つ、二つが四つになる。その変化を夜まで友人と追った福田さんは、後に医学部へ進んだ理由を高校生に尋ねられ、このとき感じた、生きものを見る楽しさに話を戻している。
「みんな夜わいわいがやがや、楽しかったです。」出典:同誌「福田馨氏へのインタビュー」66頁(2002年1月15日実施)。数学の授業と合宿の経緯は65〜66頁。
写真を読む校舎
理数科ができた頃、校内の建物も入れ替わりつつあった。1969年入学の磐南24回生が残した頁には、瓦を重ねた屋根と、木の柱が支える玄関が写る。同じ頁には、在学中は工事の音が続き、卒業式の日に初めて新しい通路を歩いたという回想がある。
工事を見届けた学年、全国大会を迎えた学年
1983年10月に完成したはぐま会館には、工事をそばで見ていた生徒の記憶がある。磐南36回生の回想によれば、国分寺遺跡の発掘調査があり、完成が延びた。翌春に卒業する生徒たちは、在学中にようやく建物の出来上がった姿を見た。
平成に入った頃の回想には、バレーボールの練習中、椅子に座ってコートを見ていた顧問の姿がある。後に自分も教員になった書き手は、技術の指示より、その視線に見守られて自分で判断できたことを覚えていた。1991年には全国高校総体の水泳競技が磐南で開かれた。磐南45回生の記憶には、水泳部員のほかにも、大会を支えた生徒の姿が残っている。
出典:同誌38、57、59〜60頁。写真を読むはぐま会館
磐南36回生の頁で、はぐま会館は正面を少し外した角度から写されている。壁の館名と上階の長い開口部が一緒に見え、建物の奥行きがわかる。卒業までに完成を見届けたという回想に添えられたのは、この外観だった。
見付中学から磐南へ 略年表
- 1922(大正11)
- 4月、見付中学校開校。7月、仮校舎から現在の校地へ。
- 1926–27
- 50メートルプール完成。翌春、第1回卒業式。
- 1932・1936
- ロサンゼルス、ベルリン両五輪で見付中学ゆかりの競泳選手がメダルを獲得。
- 1948–49
- 新学制で磐田第一高校に。翌年、磐田南高校となり、女子生徒が入学。
- 1962・1967
- 夜間定時制を併設。5年後に昼間定時制を併設。
- 1970(昭和45)
- 全日制に理数科を設置。
- 1983–90
- 1983年、生物部が土壌の形成を調べた研究で日本学生科学賞1等賞。1985年に地学部、1990年にも生物部が同賞1等賞。
- 1991–92
- 全国高校総体の水泳競技を校内で開催。翌年、米国のマウンテンビュー高校と姉妹校提携。